花だより最新号は、店長のブログ「はなちゃんの道」にて公開中!
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祖先からのプレゼント!
江戸時代は、庶民は名字を正式に名乗れなかったのですが、 家紋は比較的自由であったために多く広まりました。 しかも、戦国時代と違って美的に精錬されてきました。丸のついた紋 が多くできたのも、この時代です。 古い時代の遺物などと言わずに、家紋をじっと見ていると、祖先の顔 が浮かびます。 これは祖先から子孫への魂のこもったプレゼントだからです。
ヨーロッパでは貴族の独占物!
家紋を用いるのは、世界の中で日本とヨーロッパだけです。 ただし、ヨーロッパの家紋は貴族の独占であって、一般の人々にとっては、無縁の存在です。 それに比べて日本の場合は、多くの庶民がみな家の家紋を持っている国です。紋の数は一万 もあって、バリエーションも世界一です。 また、その一つ一つが長い歴史の中で磨かれ、じつに優れています。美術的にみても傑作です。 国民皆紋といって過言ではないといえます。
カジュアル着の小紋は、武士の正装だった?
小紋の起源は、足利時代(1400〜)に誕生した裃だと思われます。当時、大紋という大きな柄の織物でできた武士の装束があったのですが、その袖を外したものが裃のはじまりでした。初めは織物だった裃も江戸時代の寛永の頃に、初めて染めだしたと言い 伝えられて以来、小紋は裃を染める捺染の一種のことを指す言葉として定着していきました。裃には各大名によって決まった柄「定め小紋」があり、その柄を見ればどこの藩の者かが一目でわかるようになっています。小紋柄は装飾と藩を表す紋の意味合いがあり、それを染めた裃は当時武士の正装だったのです。 この「定め小紋」は非常に一つひとつが小さな柄で、型紙を彫るのは大変だったようです。初めは裃を染める技法だった小紋染めでしたが、大名の数に限りがあり、職人の手が空くようになりました。そこで、彼らは小紋染めを羽織やきものに施していきます。 それが、やがて庶民にも小紋染めが広がる要因になり、小紋染めは普段着のきものとして急速に浸透していきました。 戦後になり、呉服業界は柄にかかわらず、型紙で染めた連続模様のきものをすべて小紋と呼ぶようになり、元々の「定め小紋」の意味合いは忘れられ、今では普段着のきものとなりました。
きもの伝説 − 加賀のお国染め
江戸城の大広間に諸大名から、お国自慢の献上品が送られてきて山と積まれていました。 ある日、いつものように家康は、一品ごとの説明にうなずきながら、献上品を見回っていました。その家康の足が止まり説明役は、加賀前田様より加賀のお国染めと承っていると答えました。それは、茶褐色に輝く手綱で、御用馬百頭分が積まれていたのです。その手綱を手にした家康は「見事なものじゃ」とつぶやかれたそうで、並いる大名達は「さすが前田殿」とささやきあい、加賀藩主前田利常は面目を得た上、ねぎらいと誉め言葉まで与えられました。 それ以来加賀のお国染めは全国に名を馳せますが、藩主前田利常は将軍家より与えられた名誉はお前達のお陰である、この後も良き染めをなし加賀の名産としてほしいと、喜びを染物業者にも分かち合ったそうです。 お国染めとは麻の無地染めで梅染、赤梅染、黒梅染が古くから伝わっていました。 工芸を育てるのに熱心だった加賀家には、代々の藩主が守り抜いた家訓があったそうです。「藩主自ら武人になるまじく、好んで学問、美術工芸を極めるべし。それが、家を守り抜く事にて候。上には豊かさほどほどに、下々を富ますべし」と。
お出掛けに欠かせない抱え帯・扱(しご)き帯
おはしょりのなかった江戸時代、裾を引きずらないように外出時だけ活躍した紐、それが抱え帝です。 七五三の七歳の女の子の帯や花嫁衣装の帯の下側をよく見ていただくと、帯のような布が巻かれているのに気づきます。これは抱え帯、または扱(しご)き帯と呼ばれるものですが、一体何のためにつけているのでしょう。 このルーツは、江戸時代にあります。江戸時代は小袖と呼ばれるきものの時代でしたが、上流階級の女性は、きものを引きずるほど長くして着ていました。家の中ではきものの裾をするすると引きながら歩いていましたが、このままでは外出できないために、外出時には、棲をとって裾を持ち上げ、汚さないようにしなければなりませんでした。 しかし、これはとても面倒で、歩くにも大変でした。そこで何かいい改善策はないものかと考え、外出時だけ裾をあらかじめ上にあげ落ちないように紐で抱えるように固定するやり方が生まれました。江戸初期から元禄時代にかけての頃のことです。この時使われた紐が抱え帯または扱(しご)き帯と呼ばれるものなのです。 これは、まだおはしょりのなかった頃のお話ですが、この抱え帯の登場は、後世おはしょりができるきっかけになったと言われています。 それまでは、対丈できものを着た庶民までもが、わざわざ上流階級の真似をしておはしょりをつくるようになるのです。
石川県能登の国にのこる里人に麻織りを伝えた女神の伝説
越の国を平定された出雲の神様が、能登のある村で休息されていると、機織ることを仕事とする美しい乙女に出会われ、食事を乞われました。乙女は、神様を機殿に招き手作りの酒と稗粥でもてなし、この粥は麻布織るのに必要だと説明しました。 出雲の神様は、その乙女を愛され妻として一族に加えられ次々と多くの国を治めていかれました。しかし、大和朝廷の勢力に屈して、国土奉還することとなってしまいました。 里人に機織を数え幸せに暮らしていた妻は、夫に命じられて、迎える天尊の妙衣を製し、献上した後、もう布は織らぬとばかり機織りの道具を海に拉げ込んだのです。国譲らねばならぬ哀しさがこもる機織りの道具は、一夜のうちに小さな島となったそうです。 里人は彼女の徳を慕って麻織祖神として敬いました。 その後、能登の祖となるべく大和朝廷に命じられた兄に従って天皇の皇女がこの里に来られ、機織が盛んであった頃をしのび、出 雲の神様の妻の遺業を受け継がれたので、再び良き布織る里として栄えるようになりました。 皇女が亡くなると里人は、二人目の麻織祖神として祀り崇めたといいます。
産着の背守りに込められた祈り
背守りとは、赤ちゃんに着せる産着の背中につけられた飾りで、赤ちゃんが無事成長しますようにというおまじないのようなものです。 この風習は宮中から始まったもので、産着の背中に赤、青、黄、自、黒の五色の糸を縫いつけました。この五色の配色は中国から伝わったもので、それぞれの色には血行を良くするとか胃を強くするといった意味合いが込められていたようです。 昔は、生まれてから三歳までに死んでしまう子供が多かったため、子供の成長は、本当に切実な願いだったのです。 この上流階級の風習は、段々と庶民の間にも広がるようになり、産着に魔除けとして、五色の糸ではなく様々なおめでたい時に使われる縁起の良い柄が縫いつけられるようになるのです。庶民とて、我が子の健やかなる成長は、人生最大の願いだったのです。 この風習は、明治時代になるまでずっと続くのですが、江戸時代から明治時代へという大きな変遷の時期に、江戸時代の多くの風習と共に途絶えました。 しかし、最近、関西を中心に背守りは少しずつ復活しているようです。医学が発達した現在でも、子を思う親の気持ちに変わりはないのでしょう。
七五三のルーツ
七五三という行事は江戸時代から続くものですが、そのルーツは三歳に行なわれる髪置の儀、五歳に行なわれる袴着の儀、七歳に行なわれる帯解きの儀にあります。髪置の儀はこれ以降は髪を生やしても良いという儀式です。 江戸時代には三歳までは男女ともに髪を伸ばさずに剃っていたのです。その方が美しい艶のある黒髪になると信じられていたからでした。五歳に行なわれる袴着は、男の子が初めて袴を身につける儀式です。それ以降男の子は児童ではなく少年の資格を得ることになるのです。 帯解きの儀は、子供のきものだけにつけられた紐を取る儀式です。このように、本来七五三には年齢によって異なる意味を持っていたのですが、現在では子供の成長を願う節目の行事となっています。
また神社の入口におかれている狛犬も、口をあけているのが雄といわれていることから、鶴も同じであると解釈した方が正しいかと思います。